「居間に置かれた百科事典というのは情報レファレンスというよりも、むしろ精神的な意味のある家具のひとつだった。」
できる人と一緒にいると、確かにツライ。
このライト欲しい…(´・_・`)♡
「1人で」というのがすごい。
今までは「何かひとつだけでいいからスペシャリストになれ」というのが求められていたと思う。だけど、これからは段々と「総合力」というのが求められてくるのではないか。
企業で雇われて働くにしても、企業に雇われないで働くにしても。
全体像を見渡せる人でないと、問題解決は難しいからである。
ほぉー、と鋭い分析。
社会問題は、様々な要因が重なって出てきたものだから、特効薬はない。小さなことを一つずつほどいていくことが大切。
関心を持ったのは、2つ。
海外では、男性も女性のように比較的短時間労働になるようにされているから、女性も無理な働き方をしなくてすむ。日本では、男性も無理な働き方をしているし、だから、女性もそれを求められる。夫婦のどちらもが、そんな働き方をするのは無理だから、女性がキャリアを諦めるか、子どもを諦めるかになってしまう。
あと、低賃金労働が存在できるのは、どこかに高賃金労働があるから。夫、もしくは親などの稼ぎで食べれるから、女性は低賃金の仕事でもいいかとなる。となれば、高賃金労働がなくなるにつれて、低賃金労働も人が集まりにくくなる。
今日は倫理学の試験でした。課題は生命尊厳について。抜苦について述べたのですが、ちょうど、今日の茂木さんの連ツイと関連する部分があったので、自分のも簡単に残そうと思います。
抜苦とは、文字通り、人々の苦しみを抜くこと。だけど、苦しみを抜く為には、まず人々が何に苦しんでいるのかを知る必要がある。それが「同苦」である。
人はそれぞれの体験をし、皆が同じ苦しみを味わうとは限らない。それでは人の苦しみを理解することは不可能なのか。いや、想像し、想いを寄せることによって「同苦」をはかることができる。
この、体験をしていない苦しみを想像するというのは、かなり高等に発達した知能の働きによる想像力を必要とする。
しかし、相手の苦を自分自身の痛みとして感ずる共感のうえに立って、その苦を取り除くことが最も大切である。
もし「同苦」のない絆であったら、それはいずれほどけてしまう絆である。
「同苦」はそれほど、人にとって尊い行為なのである。
小学生になる前の幼児と、かくれんぼをしたことはありますか?
じゃんけんに勝った子供たちは、鬼役のもとから脱兎のごとく駆け出し、思い思いの場所に身を隠します。
鬼は、さあどこにいるかと周囲を探し始めるわけですが、それほどスリリングな体験を得ることはできません。なぜなら、隠れた子供たちはそれぞれの場所からちょこちょこと顔を出して、鬼の様子を伺うからです。
大人の鬼なら簡単に子供の居場所を見つけてしまいます。そして、「いたぞ!」と子供を指さそうものなら、「わぁぁ!!!」。もう狂喜乱舞の大騒ぎになります。
見つかった子供はゲームに「負けた」にもかかわらず、ものすごく喜んでいる。結局、子供にとって、かくれんぼの目的は“隠れること”ではなく、“見つかること”なのだと分かります。
3歳ぐらいの子供であれば、「見つけてもらえた」という実感を与えるのに、かくれんぼをする必要すらありません。そこに子供がいてもいないふりをして、「あれ、どこいちゃったのかなあ」と、とぼけて見せる。で、突然、「いた!」と子供を指さす。これだけで、「わぁぁ!!!」。子供は満面の笑みを浮かべて喜びます。
子供はきちんと指をさされることに、おそらく安心を覚えるのでしょう。“自分の存在”を確認してもらえたことに。
大人は指さしなどされたくありませんが、自分の存在をきちんと確認してもらいたいという欲求そのものは、子供と同様です。確かに自分が「ここにいる」ということを認めてもらいたい。「存在承認」が欲しいのです。
朝、職場で上司に「おはようございます」と声をかけたら、何も言葉が返ってこなかった。明らかに気づいているはずなのに応答がない。それだけでその日一日調子が悪くなるかもしれません。
友達のパーティーに呼ばれて行ってみたら、友達以外は知らない人ばかりだった。誰も自分に関心を向けてくれず、壁際で独りたたずんでしまう。ちょっと胸が塞がるような居心地の悪さを感じるでしょう。
メールをプロジェクトチームのメンバーに送ったのに、返信がない。「たぶん向こうも忙しいんだろう」とは思っても、少し心がざわつきます。
存在承認が足りなくなってくると、人は「シンプトム」、つまり「症状」を表出させます。その種類は主に2つ。自分をアピールして関心を引こうとする「アピール型」か、陰に隠れることで逆に関心を引こうとする「隠れ型」か、です。
アピール型のシンプトムは、不平を言う、不満を言う、批判を口にする、自分の大変さを誇示する、人の怠慢をことさらに嘆く、などなど。これらはすべてその人に対する存在承認の不足によって起きている可能性があります。健全なアピールはいいのですが、存在承認不足から生まれたアピールは周りに悪影響を与えます。
一方、陰に隠れてしまう人もいます。話さなくなる、飲み会などに誘われても行かない、会議などで一切発言しない、遅刻する、挨拶をしない。これらは隠れ型のシンプトムである可能性があります。
「鶏が先か卵が先か」のような話ではありますが、風通しの悪い職場では、お互いに対する存在承認が薄いので、個々が多くのシンプトムを表出させます。それによってより雰囲気はさらに悪くなり、そしてまたシンプトムが多く表れることに……。
–「本当は認められたい」大人たち:日経ビジネスオンライン (via petapeta)
2011-09-14 (via gkojax-text)
2011-09-17
(via quote-over100notes-jp)
Via Everything is so curious.私は「学習コースデザイナー」というものになりたい。
でもいったいそれって何?
てことで、今のうちに自分で勝手に定義しちゃおう。
まず、前提として学校というものはなくならないだろう。
なぜなら国が人を教育するのにこれほど効率がいいものはないし、親や地域はもはや自分たちで子どもを教育することなどできない(人が多い)。それにやっぱり、子どもは子ども同士で集まりたいだろうし。
その中で授業は一斉授業ではなくなるかもしれない、というのがこのリンク先の話。国・数・英・理・社に代表されるような授業はコンピューターにとって代わられるかもしれない。
では、そのとき先生は学校の中でどんな役割を担うのか。
それは今ある先生の役割のうち何が残るのかという考え方でまず考えてみる。
・生徒指導(社会生活のルール・道徳を教える)
・進路指導(子どもの適正を見極める)
この進路指導がいわゆる「学習コースデザイナー」なのであろう。
もっとも進路を決める前からのアドバイスというものが含まれてくる。
子どもは何に興味があり、何に適正があるのかを見極め、勉強方法についてや職業の中身についてもアドバイスするかもしれない。
幅広い知識が必要だなぁ・・・。まさにおもしろそう。
たしかに共同体はダウンサイジングした方がいいと思う。
道州制もありだと思う。
だけど、すでに経済は大都市圏の企業が地方まで手をのばしていて、バックオフィスは地方にはない。
それどころか最近はバックオフィスは日本ではなく賃金の安い海外へ行くという意見もちらほら見る(だから事務職なんて日本にはなくなるよ)というのだ。
なぜ日本の企業のバックオフィスは今は賃金が安い都会にあるのか、そして、なぜ賃金の安さを求めるのなら日本の中の地方ではなく海外へという発想になるのか、そこらへんの矛盾はわからない。(たしかにコールセンターとか工場とかは地方にあるけれども)
少し話がそれたけれど、地方分権などのダウンサイジングはした方が効率もよいと思うし、倫理が通じる範囲というのもわかる。だけれども、もう地方は都会の企業なしでは生きていけないほどに、都会の企業に雇われてわずかな賃金をもらっている人が多い。
地方のお金は都会の企業に吸い取られ、その一部が地方で働く人に帰ってくるのみだ。
地方が他の地域でも稼ぐ術を見つけないと、税金をばらまくしかないし、それは地方の自立にはつながらない。
